試合の前ではみんな平等 |
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サッカー 雑感 ソーシャル |
サッカーの試合の本当のところは、ピッチの中で戦った選手たちと監督にしかわからない。
ピッチ内の激突を体感していないそれ以外の人たちは、その試合の前においてはみんな平等。
詳しい、詳しくない、の違いはあれど同じ地平で語り合える。 そして語られたことすべては かわいい参考意見。
今仮に、この参考意見を集約して集合知を出したとする。 そしてこの集合知を全員の前に置いてみる。(情報を人間より先に立てる) 集合知の前ではみんな平等か? というと そうじゃない。 その中には試合の本当を知る選手らが含まれるから平等は成り立たない。(選手を除外すれば平等) そして ずるいやつは、平等が成り立たないその隙間に割り込んでくる。 (選手やサッカー関係者を頂点とした序列をつくろうする)
参考意見を集約した集合知なんて必要もない。 個別の意見が個別のまま 数多く交わされる方が明るい。
ポータルよさらば。 ソーシャル いらっしゃい。 ポータルによる参考意見の集合知.. はぁ~ だ。
ソーシャルがフラットなのには意味がある。 メッセージを送るのに躊躇しなくなり、コミュニケーションが活発になる。
このことの裏には平等という意識が隠れている。 ソーシャルから堅苦しい言葉を掘り出すなら、自由と平等。
発言機会の平等と発言内容の自由。 ただし、それは何か普遍的なもの(花の美とか) や個人を超えた(地球規模な) ことの前において。 (だからソーシャルは常に普遍的な対象を求めていると言える。それがシェアの意味合いなのかも)
投稿者 x3ru9x | 返信 (1) | トラックバック (0)