この人は、書かれた文章を読む限り、読み書きにおいては日本語英語ともに優れた人なのかもと思った。
ただ英語は基本「語る」のが重要な言語なので、読む書くの方が重要な日本語とは、永遠に相容れないのかもしれない、と個人的に思う。
アクセントがきつくて疲れる、尊敬できない、と学生に評価されたとあるが、この辺りでも、この人は本を読んだり、わりと目から入ってくる言葉だけを重要視して来たのかもしれないと思った。英語の音楽とか映画とかはあんまり好きじゃないのかなと。
「勉強」の弊害なのかもしれない。言葉というのはほんとうに生き物と同じで、語彙や表現で、どういう人たちとどういう環境にいるのかがわかりやすい。環境が変われば、使う言葉も変わってゆく。でも「勉強する英語」というのは、そこに固定されてしまって、言語に必要な"生物的"流動性というものに欠けるのかもしれない。
語学留学生に多いような気がするが、日本語の本さえ読まない人間が多い。日本語が不得手なのに、どうやって外国語を習うんだろうと思う。
結局、英語はもちろん日本語のレベルもそのままで終わるか、必死で勉強して英語の形だけは何とか整える(発音や英語独特の表現など)が、基礎の日本語ができてないので中身がない、のどちらかに落ち着く羽目になった、という例がほとんどだったように思った。
言葉というのは自己表現の手段なので、表現したいことがないなら使う必要がない。伝えたいことがある、語りたいことがある、そういう人が伸びるのは当然とも言える。
何かを学ぶ、というのは、自分を知ることでもあると思う。知りたい自分がないと、学ぶということもうまく行かないような気がするんだがどうだろう。
英語なんて、わかりたいヤツが努力すればいいんじゃね? 英語できないと世界で生き残れない!とか思わずに、まず母国語の日本語を先に何とかしようや。
そもそも、べらべら口の上手い人間を軽蔑する傾向にある日本文化と、口が上手くないヤツは負け犬!的北米文化(イギリスやらオーストラリアはまた違うんじゃないかと思う)と、そこから相容れるわけがない。
謙遜やら謙虚を美しいと思うし、そういう日本だからこそ妙に尊敬されてる部分があるんじゃないかと思う。格下に見られて怒るどころか、「自分が引いて負け犬になることによって、誰かが負けなくてすむ、そして争いにならなくてすむなら負け犬で結構」という態度を、表に出さずに保てる日本人的気質を、日本人としてこっそり誇りに思う。
気高く負け犬でいられるって、すげーことだと思う。日本人は卑屈だ卑屈だって言われるけど、好きでそう振舞ってるんならいいんじゃね?文化の違うヤツに何言われてもいいんじゃね?と思う。
英語から話がずれたけど、日本人は、表に出さずに自分を大事にしてればいいんだよ、英語なんか知らね、という話。
追記。
英語が母国語の人間の一部(ってか、かなりの多数)は、耳から入る言葉だけを重要視して、目から入る言葉(つまり読むということ)を病的に軽視してるような気がする。
もちっと本読ませろ、文章書かせろ、大学で小論文書く時の最初の注意が「文法の間違いも点数引きますよ」ってのはどうなんだよ。