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ソーシャル考察

‘日本のソーシャルの概念は遅れている? 間違っている?’

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- (ブログ)

 記事の論点は、パブリックとクローズド(プライベート)。

前と同じで 内と外の感覚のあたり。

 どの記事を読んでも パブリックとクローズドを別々に分けるだけの論調で クローズドなところからパブリックなところへアプローチする といった観点がない。(逆のパブリックからクローズドへの方向も)


 たとえば、残業で夜8時半ぐらいになり そろそろ会社から帰ろうかというおじさんを設定してみる。

もし仮に このシチュエーションのところにシチューを持ってきたとしたなら、そのシチューが出現すべきところは我が家だ。 会社近くの洋食屋さん(外) じゃない。 おじさんは外にいて内(我が家) に向かおうとしているのだから、シチューは内のエリアのどこかに出現すればいい。 この設定において おじさんは寄り道せずまっすぐ家に帰ろうとする(動機付けが強くなった)。

(この場合は外から内への方向)


 当たり前の行動様式なんだけど、こんなところにも内と外の感覚が働いている。

もしここで、おじさんがモバイルを取り出しfacebook を通してPCの前の奥さんに連絡をとったなら、facebook は通信の方向と時刻を考慮して両方にシチューの広告を出す。 もうこれは広告ではなく、facebook からお二人へのプライベートな提案といったもの。 (モバイルからPC、男性から女性の通信だから "外から内へ" の見当はつく。facebookのプロフィールが詳しければもっと適切になる)

 *-- この例はfacebook のクローズドな中でのもの。 内と外の感覚についてわかりやすくするため。


 こういった内と外との行き来や、内と外とを利用したカラクリ付けがウェブ上でもシュミレートされていく。

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‘イラストの向こうに見えるソーシャル 1、2’

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- 1  2

 似顔絵を描きながらソーシャル活動している女性がいるという。 南暁子さん。 そして描いてもらった人たちは描かれつながりでミーティングもするらしい。

 しかし気を使うだろうな。 ある意味、幹事だし(南さんが)。 佐々木氏も参加しているとのこと。

 広場でイーゼルを立てて似顔絵を描いてる人がソーシャル内で似顔絵を描いていくと 似顔絵に付加価値が付いてくる。

まぁそうゆうことなのかも.. (これはたとえです)

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 それにしても みんなソーシャルやってるなぁー。 

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 pixiv は お絵描きでソーシャルってことなんだけど、各人それぞれが自分の描きたいものを気ままに描いているだけじゃ

つながらない。 どっちかがどっちかに歩み寄って絵的世界を共有&拡張するということをしないと。 しかしそれが難しい。

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 胎界主の画調に合わせる加工もソーシャル活動を念頭においてのこと。 俺もなんとか今持ってる芸で ソーシャルの触手を伸ばして行かねば...

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 これから先、ソーシャルっぽいことを何もしなかったら してきた人と大きな差がついてしまいそうで怖い。 ちょっとこれはいけません。 お金じゃないところが むしろやっかいだ。 

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 sa.yona.la とてソーシャル。 お気に入り機能(友達登録) もある。 ここに顔を出していればソーシャルっぽいところで活動しているとは言える。 形容するなら 涼しいソーシャル環境といったところ。

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Re: 佐々木氏があの記事に言及

‘佐々木俊尚さんとの見解の違いについて【湯川】’

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-

 湯川氏が佐々木氏のツイートに対してリプライした模様。 フムフムと読んじゃいましたよ。(蛇足の追記の方も)

まず、自分が読み取ったものと湯川氏の意図とがほぼ同じであって ほっとした。 これ、違うふうに読んでいて湯川氏の言ってることにピンとこなかったら 自信を失うところだった。 あーーよかった。

 ここは湯川氏の勝ちでしょ。 これから 佐々木氏より湯川氏について行こうかな。(そうしよう)

ほんと、あの学生(水谷君) の記事は "100%間違ってる" で片付けられる記事でもないし、残念な記事でもない。


 湯川氏は追記の中で、

>> 同じソーシャルメディアと呼ばれるものの中にも、実は違いがあり、この違いが実はすごく意味を持つようになる、というのが水谷さんの言いたいことなのだと思います。では「どう意味があるのか」という問いに対する答えは、水谷さんの文章には書かれていません。彼は恐らく感覚的にその違いが今後非常に大きな意味を持つことに気づいているだけで、それをうまく表現できないのでしょう。 <<


 と書いている。 これは、水谷君の、

" そういったやりとりが誰からも見ることが可能なオープンな世界が、インターネットです "

 や、

" そしてこれらのやり取りはお互いの共通の友人・知人からしか見ることはできず、閉ざされた世界がソーシャルネットです "

 をフォローしてのことだろう。

言ってみれば、内 と 外 の感覚の問題。


 そして湯川氏、

>> 特に日本の現状を見る限りにおいては、ソーシャルメディアを2つに分類する意味をまったく見いだせません。<<


 いやこれは、水谷君の内と外の感覚が 今は対象をこう捉えているだけであって、ここはサラッと流してもいいのではないかい。(後々変わりもするだろうし) そんなことよりポイントになるのは 先に言った 内と外の感覚の問題。


 "この違いが実はすごく意味を持つようになる、というのが水谷さんの言いたいことなのだと思います。では「どう意味があるのか」という問いに対する答えは、水谷さんの文章には書かれていません。彼は恐らく感覚的にその違いが今後非常に大きな意味を持つことに気づいている...."


 ここ。

 "では「どう意味があるのか」" ってありまんがなぁ。

内の意識と外の意識の このこすれあってせめぎ合うような薄皮というか空気の壁というか、この隔たった感覚エリアの境目のそここそがアイデアを生み出すエネルギーの源(みなもと) でしょっ !!!

 内の感覚に留(とど) まっている意識が 外の意識のエリアにアプローチしようとしたとき、知恵は絞られアイデアが生まれる。 アイデアや発想は、腕を組んで天井を見上げ "何かいいアイデアはないかなー" なんて言ってたって出てこない。 内に留まっているところから片足一歩でも踏み出して、何か(外の) にアプローチしようとしたとき始めて生まれる。

 一目ぼれした女の子に声をかけることだってそう、アプローチしようとして始めて じゃぁどうゆうふうに声を掛ければいい? と知恵を絞るようになる。 これすなわち、内と外の感覚あっての薄皮を突破しようとする行動力。(背中を押す力の意も含めて)

 「うちうち言うやつに発想なし」。 よく会社で "うちの会社は" とやたら うちうち 言う人がいるけど、内という意識で自分を固めてちゃ新しい発想も持ちえない。 何かを辿(たど) って外にアプローチしようしたとき始めて頭が働き出し発想も湧いてくる。


 水谷君や湯川氏が焦点を当てようとしていたところは、すごいポイントだわ。 ここは大きいと思う。(人を動機付ける仕掛けを考える上でも、またゲーム内のシチュエーションの設定を考える上でも。 どうなれば面白いのか のヒントがある)

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Re: ‘蔓延する誤った「ソーシャルメディア」の定義【水谷翔】’

佐々木氏があの記事に言及

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z97kg6up


 おっ、 TechWave 白熱教室かぁ~。  "100%間違っている" キタァー。 (あの記事)

 あの記事のニュアンスは そんなに間違いでもないと思うけどね。 そのあたりはもうモニターの前に座る人の意識の問題だから。(そう感じる人はそうなんでしょうという感じ) 40人の人とつながっているページを閉(と) じていると感じる人もいれば、十分開(ひら) けていると感じる人もいる。 一旦開けていると感じたなら あとは30人も100人も500人も(増えても減っても) 同じだろうという感覚になって、結局こんなもの仮の設定でしかないと思うようになる。 人がどんな 内、外、の感覚をもっているかは ほんと人それぞれ。


-- 話は変わって --

 ソーシャルというのは、難しいとも感じるウェブをフレンドリーに見せて とっつきやすくするための ただのUIであるかもしれない。 と、俺は心のどこかで疑いも持っている。 今は "ソーシャル" という言葉が踊っているけれど、本当の実体は もうあまり言葉として聞かない マッシュアップ だとか コラボ 、共同編集、このへんにあるのではないかとも思っている。 

 本当に ソーシャルファースト か? という疑いは 少なからずある。

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‘蔓延する誤った「ソーシャルメディア」の定義【水谷翔】’

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- (TechWave)

 読んだ。 まぁ基本的なところの整理といった感じ。 

ただ ここんとこ、

>> インターネットでは、新たな情報に価値があります。

ソーシャルネットでは、友人・知人の動向(近況、レコメンデ―ション)に価値があります。 <<


 情報が個人付随のものだけだとしたら、人の数+α、で人数分しかない。 人と人の間のつながり部分に着目すれば情報は無限に増える(掛け合わせだから) 。 

 ウェブは関連付けを編集していく巨大な装置でもあるから、目を向けるべきは人そのものじゃなく、人と人とのその間の部分。 人を大切にしようという気持ちがあるから人に目が行くのだろうけど、システム(機械) としてはつながり付けのために使う方がより機能する。 個人付随の情報量なんて たいしたことはない。

 このあたりは マーク・ザッカーバーグ も言ってた。 というか昔から言われている。 


 ECのマーケティング的な目で見れば お金を出すのは個人だから 個人を囲い込もうとして一人単位で考えるけど、

ソーシャルな考え方で人を見るなら 最小単位は2人ってことになる。(つながりだから)

 マーケティングの目とソーシャルの目の違いってこのあたりなのかも。


 で、そのソーシャルの目で見た場合の つながりのところでどんな価値を生み出せるのか、ここがマーク・ザッカーバーグに注目が集まる理由。 みんなそこを知りたがっている。

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Re: facebookアプリでCivilization

facebookアプリでCivilization (つづき)

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 シドマイヤーがシュミレーションゲームを世に出したとき多くの人は、"何が面白いの" とよく言ったものだ。 その後 パソコンの性能は上がり相互に結びつくようになった。 機械が結びついたあと 人々はそれを人間関係に利用するようになった。

その中でシュミレーションゲームは再発見され新たな発展段階を辿るようになる。 その発展段階の途中 多くの人はある体験をし、行き着く先に一つのアイテムを見出し始めた。 そのアイテムとは何か、本 Book 。 そう人々は他者を通じて読書を体験していたのだ。 シュミレーションゲームの初期から ここまでのストーリーをいったい誰が予見し得ただろう。

 私たちは今 文明の発展段階をその身をもって体験し、気付き始めている。 ここがCivilization の現場なのだと。

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Re: facebookの本名

facebookアプリでCivilization

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 文明の隆盛と崩壊といえばローマ帝国。 

たとえば、ローマ帝国のところだけのCivilization(日本語版) があるとして そこに出てくるエピソードのテキストが塩野七生さんのテキストだったら面白い。 ターン制のシュミレーションゲームだからゆっくりテキストも読んでいける。

 こうゆうところにも電子書籍のポジションがあるのではないか。 ちょっと奥まったところにある感じになるけど。 

電子書籍が話題になっていることもあって電子書籍をコンテンツ商品陳列棚の最前列に並ぶ顔のようにとらえてしまっていないか。(それだけが電子書籍じゃない)


 SNSがあって、SNSアプリとしてゲームがあって、そのゲームアプリのプラグインとして電子書籍がある。 つまり組み込まれて関連づれられた電子書籍。 (シンプルに.. シュミレーションと電子書籍)  これもありだろう。


 リアルタイムゲームじゃ難しい。 ターン制のシュミレーションゲームでないと。 ユーザーのインタラクションをまつゲームと電子書籍。 この組み合わせ、どうかな...



 ソーシャルゲームを通してテキストがものすごく読まれていく。 佐々木氏の言うソーシャル読書とは こうゆうスタイルなのかもしれない。 本という形は見えない。 まとまった形のテキストが結果的に本一冊分読まれて、その時点で電子書籍なんだと。 (だから やっと本を一冊読み終えたよぉー という感覚もないし、また本のお勧めかぁ.. という重い感覚もない)

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facebookの本名

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 すぐに本名を出すのがいやだったら、2年に一文字づつ出していってもいい。

たとえば、中山一郎だったら、一郎は先に出しておいて中山を "な" "か" "や" "ま" と7年かけて出していく。

最初の2年は Ichiro Na 。 3、4年目は Ichro Naka 。 5,6年目は Ichiro Nakaya 。 

7年目にしてついに Ichro Nakayama 。 本名が7年目にして明かされるという... ...

 検索窓上では1年目も7年目も同じだけどね.. インクリメンタルだから。


 長ったらしい名前なんて打ち込むのもめんどくさい。 湯川氏は鶴(tsuru)。 梅田氏はモチ(mochi)。 それが本名。

それにしてもfacebook のあの検索窓はよくできている。 キビキビ人が出てくる。 このへんの技術なんだろうな。


 そういえば来年 facebookアプリに ソーシャル型のシビライゼーションが来るらしい。

‘Facebook用"Civilization Network"は2011年リリース’ -


シビライゼーションとは (参考)

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sns

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 facebook の進攻と言ったところで ユーザーにとって意味があるのは、有意義な出会いであり、勉強になる人へのお近づき。 mixi の牙城は強固だとかfacebook は流行らないとか そんな勢力争いはユーザーにとってあまり関係がない。

 また、ある時期 注目していた相手でも 時間の経過とともに興味がなくなったりする。 つながったり切れたりして動いている。


 梅田氏の考察に興味がなくなって久しい。日本とシリコンバレーを股にかけるBetween橋も霧の向こうに霞んでしまった。

 ... と思いきや、


>> 「インターネットとはそもそもグローバルなものなのだ」という常識があります。しかし、その常識から離れて虚心にウェブ進化の現実を眺めたとき、インターネットが広く人口全体に普及する段階においては、ローカル性がグローバル性を凌駕するのがむしろ自然だと考えるべきだろう。徹底的にグローバルを志向するムーブメントのほうをこそ「特別なもの」と見る必要があるのではないか。次第にそう考えるようになりました。 (梅田望夫) <<


 ムムム、興味がわきますねー。 -

ほー、ここにきてオープンエデュケーションとな..

 facebookをこのオープンエデュケーションと考え合わせたなら、snsの文脈もまた違った文脈になるのかも..


 "[コラム]メタ・ユニバーシティとクラウド・カレッジ" ... なんと..

 "オープン・テキストブック" ... ははーん、このあたりから佐々木氏は ソーシャル読書とか言ってんだな。



 梅田氏のブログエントリーについたコメントより、


>> さて、最初の話題に戻ろう。p.76まで読んだが、オープンエデュケーションというものはどうも試行錯誤の段階のような気がする。eラーニングには基本となる仕様があるようである。しかし、これがリナックスのようにオープン化されていないようである。これを早くしなければならないのではないだろうか。私の専門は社会科教育である。そして私なりに考えた事、そしての成果である教材をデジタル化して、このブログで発信してきた。デジタル化しているので、オープンエデュケーションの基本仕様が策定されれば、その仕様にしたがって、再作成が可能だと考える。 <<


 さっそく反応あり。 社会科の先生らしい。

投稿者 x3ru9x | 返信 (0)

Re: ‘ソーシャルメディアをコメント付きでまとめてストーリーを作ることができる 『Storify』’

facebook のノート

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 facebook にノートってある。 あそこ以外とポイントじゃなかろうか。

ニュースフィードのところで つぶやきとか いいね! なんかをやるより ノートのところでそこそこ読めるコラムとか 何かのまとめみたなのを書いた方がいいのでは..  どのみちfacebook も広がってくることだし。

 キャフキャフするより、しっかりしたものを書いた方がいいと思ってきた。 ツイッターの逆を行って 内容をぎっしり詰めこむことをした方が面白い。 (そんなに内容あるわけじゃないけど..)

 そう考えるならfacebook いけるよ。 ミクシー、ツイッター の延長線上で考えるんじゃなく。 

 よしっ、俺はその線でいくよ !!


 画像もノートとできるだけ関連させる。 図解イラストやチャート、マインドマップ。 数枚まとめることができるアルバムを有効に使う。 (ただノートにはfashとかは表示できないみたい)  テーマに関係した意味合いのある画像。 あるいは逆に 画像にあるものをモチーフとして そっちからノートの方へ。


 "フェイスブック同時オン会" のamachan でさえノートは何も書いていない。 キャフキャフやってるだけ。 いいぞ、まだ気がついていないな。 ノートのところに ちゃんとした内容のものを書くとどうなるか、ですよ。

 facebookサイトということと、つながってくる人の傾向とかがあるから ブログに書くのとはまた違ってくると思う。 ブログやミクシーに書くのと何が違うの? という見方も確かにあるのだけど..


 ここでこそ キュレーターやるべきでは..  佐々木氏の言うキュレーターは確かに現れてくると思う。 ただそれがどこに現れてくるのか.. (NEVERまとめ、あそこもキュレーターって言ってた)


 まぁしかし、ベースはsa.yona.la に置いて、というスタンスだけど。


.......

参考 :

● "フェイスブック同時オン会" のamachanさん(facebook) -

投稿者 x3ru9x | 返信 (0)

Re: 共有世界 to 所有 までのプロセス

‘ソーシャルメディアをコメント付きでまとめてストーリーを作ることができる 『Storify』’

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-

 ソーシャル と ストーリー って相性がいい。 ある知らせ(情報) が誰かから誰かに伝わっていく過程の中で それぞれの人がそれぞれの反応(行動) を見せる。 その流れを切り取るだけでもエピソードになる。

 ただ、その流れの記録が 単なる思い出としての記録になるか、再現可能なタスクの記録になるか、はある。


 サンプルを見ると ツイートとツイートの間をつなげる文が入っていた。 それがあるとツイートのつながりに味がつく。



(つづきへ - )

投稿者 x3ru9x | 返信 (1)

Re: ソーシャルの影響

共有世界 to 所有 までのプロセス

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 ソーシャルのキーとは共有だ。 

それはいいとして、たとえば レシピを共有した場合を考えてみる。 レシピを共有したのはいいが、作って食べてみたところ口に合わなかった。  

 そうなると 共有は破棄される。 "共有" からプロセスを踏んで "所有" の直前まで来たが所有されなかった ということ。 

つまり、共有から所有へのつながりが切れた。 ちゃんと所有まで来ないと共有は生きたものとはならない。

 共有に紐づいた所有もまたソーシャルのキーだ。


 ソーシャルにおいてのコンテンツは、共有しているそれだけがコンテンツだろうか。 いやいや そうじゃない。

共有しているものを自分の手元にまで持ってきて 所有することができたそのプロセスもコンテンツだ。

 そのプロセスをちゃんと表現していくことが ソーシャルにおいての個人のコンテンツ作りではないか。



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Re: 共有 と 所有

ソーシャルの影響

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 少し前まで(いや今もか)、何を伝えたいの? 何を表現したいの? みたいな 対峙した中で受けて立つような目が最初だった。 それが、君と共有できるものって何だろう? みたいな 問いかけと探索の目が先にくるようになってきた。

 受け手のスタイルは一つじゃない。



(つづきへ - )

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Re: オフソーシャルな世界

共有 と 所有

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 佐々木氏や TechWave の湯川氏のところで SNSの話題が盛り上がっている。

まぁしかし、SNSもいいことばかりじゃない。 多くの人は、得をしたい という気持ちより 損をしたくない という気持ちの方にウェイトがかかっているから 不評情報やネガティブコメント(根拠のある) の方が強く伝播する。


 SNSに関しては、少し整理して考えた方がいいことがいろいろある。

"共有" ということにしても それに対して "所有" ってのもあるわけだから。 SNSにおいての "共有" "所有" は結構 テーマになると思う。 共有一辺倒じゃ疲れる。 所有と共有とがあるタイミングで変化したりする方が面白い。

 共有の世界 と 所有の世界、このあたりの整理。 このあたりを曖昧にしていると むしろストレスになる(のでは)。


ブクマ :

‘Facebookが無料のローカル広告 ビジネス再編すべての始まり【湯川】’ -



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Re: sns をマスメディアで宣伝?

オフソーシャルな世界

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 ソーシャル化が進むにつれ、オフソーシャルな世界にも 注目は集まる。 (ソーシャルはもうお腹一杯となって)

一人旅、一人でふらっと映画館、一人でツーリング、一人でパワースポットに行って願掛け、等々。 静かでのびのびとした広い世界。


 本来 オフソーシャルな世界のものをソーシャルの世界に引っ張り込んじゃぁダメダメ。

そこは そっとしておかないと...

 (なにを言ってるのか..w)



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Re: コンセプトの共有 と スタイル

sns をマスメディアで宣伝?

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 sns をマスメディアで宣伝するというのは 考えてみれは変な話。 (sns は伝播メディアでもあるから)

グリーや他sns のようにマスメディアを使って宣伝しているうちは まだまだ目新しくて馴染んでいない何か。

これが、意識することもなく使うことになったsns の方が意味合いをもって広く伝播し、マスメディアの方は限定的にしか広がらないとなれば、本物だ。


 全国各地の人が参加する天気予報ってある。 ソーシャルの目で見れば、あれは先を行ってる。 参加型天気予報というのもまたソーシャルシップだろう。



今日 目にしたソーシャル関連のニュース :

・ 「ビジネスSNSに生まれ変わる」--サイボウズ Liveが自由登録制に -

・ これからは人を軸に情報が流れるようになる、佐々木俊尚が語る「次世代テレビ」「脱テレビデバイス」「ミドルメディア化」 -



追記 :

 佐々木氏の記事を読んだ。 

ん~、ただ動画を見ようとしているときは 楽をしようとしているときだから いちいちめんどくさいのはどうかなぁ。 へたをするとそのときだけはソーシャルがウザいものになる。

 これが天気予報のように情報を取りに行こうとしているときならソーシャルは機能する。 (語学の勉強とかも)

 そのへんのオンオフはあると思う。 ソーシャル一辺倒にはならない。 オフソーシャルという状態もある。



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Re: ソーシャルシップの具体的な行為

コンセプトの共有 と スタイル

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 コンセプトを提示し このコンセプトを受け取ってください、といってそれを書いたビラを手渡しても すんなりとは受け取ってもらえない。 ましてやコンセプトがスローガンとなったものなど脊髄反射的に反発される。

 じゃー どんな形でなら受け取ってもらえるのか。 スタイルだ。 コンセプトをスタイルに込めて複数提示し選択できるようにしたなら受け取ってもらえる。 あくまで手渡すものは スタイル、コンセプトはその後に共有されるもの。

 ソーシャルのミソは共有だという。 コンセプトは共有されるものなんだったらソーシャルシップ形成のためには 先にコンセプトを言いふらしゃーいいじゃないか、となるが それじゃ伝わらない。 共有されるもの(共有してほしいもの) はコンセプトだとしても手渡すもの、受け取ってもらうものはスタイル(選べるようになっている複数のスタイル。選択肢) だ。

 このへんのボタンを掛け違うとつまずく。 いや、コケる。


 複数スタイルを用意して選択肢を提示するというのは、その先にシーンの夢を見させること。 右のスタイルを選べばこういうシーンがイメージされ、左のスタイルを選べば別なシーンがイメージされる と、シーンを様々にイメージすることが楽しくなる分岐の場をお膳立てすることでもある。


 "ソーシャル" "共有" というキーワードで、コンセプト、スタイル、選択肢、の からみが解けてくる。


(つづきへ - )

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Re: ソーシャルのコンセプト

ソーシャルシップの具体的な行為

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 弾さんが "この本は目から鱗が落ちまっせ!" と書評した本をすぐに買って読み、"いやほんと、この本の洞察はすごい、目から鱗が落ちたよ!!" と共感する。 そして、そのことを弾さんのブログコメント欄に書く(or トラバ)。 それも1、2冊じゃなく継続して続ける。

 これすなわち ソーシャルの触手を相手につなげる具体的な行為。 弾さんと自分との間に目から鱗が落ちたという感動を共有し、その共有のもとにブログやツイッターでちょこちょこ絡む。(もちろん礼儀をわきまえながら)

 なんてことはないんだけど、この形がソーシャルシップの基本的な形だ。 同じ本を読むにしても フラッと本屋さんに寄って たまたま目についたから店員さんから買って読んだ というのでは感動の共有がない。 それではソーシャルシップの形を作りえない。

 接点は部分的でわずかでもいい、"共有できるもの" というのがソーシャルシップのミソだ。 高校のときからの友達で大人になってからも付き合ってる、とか ソーシャルシップにそこまでのものは必要ない。

 こうしてソーシャルシップのスピリットをもってウェブ上で触手を伸ばしていけば モチベーションがつき自分が伸びてくる。

 向こうの人が 胸襟を開いていてオープンマインドな人であると助かる。 もちろん自分もそうであるように努めたい。


(つづきへ - )

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Re: ソーシャルづかないのなら停滞だ

ソーシャルのコンセプト

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 ほぼ日(糸井氏) のこのページなんかもソーシャルを考える参考になる。

正直は最大の戦略である とか、安心と信頼についてのあたり。


 "正直という戦略を取る" というのと、"安心世界の外にも信頼を見出す目をもつ" の2つがソーシャルの肝でありコンセプトなんじゃないか。 他にもあるだろうけど、今のところこの2つということで。

(ゲーム理論や社会心理学の考察あってのソーシャル)


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Re: ソーシャルスイッチ

ソーシャルづかないのなら停滞だ

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 とにかく儲からないと面白くない だとか、古臭い中華思想のように従うのか従わないのかどっちなんだ とか、そうゆう意識が立っているとソーシャル感覚になじめない。 内面にまでソーシャル感覚が浸透してこず、形だけ 付き合いだけのものになる。

 今一番そうゆう状態になっているのが、中国共産党首脳部。 これからもそうであるなら、ソーシャル化が巻き起こっているアメリカとのギャップは今よりもっと大きくなる。

 権威と横暴でゴリゴリしているのは、この時代 足踏みしているようなもの、遅れていくだけ。 その間に日本は、中国を取り囲む国々とソーシャルパートナーシップを築いていけばいい。

 国内にも そうゆうおっさんがいる。

 

(つづきへ - )

投稿者 x3ru9x | 返信 (1)

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